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尾崎国子のヒンデローペン

Kuniko Ozaki’s Hindeloopen

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尾崎国子ヒンデローペンエッセイNo2

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ヒンデローペンへようこそ

ヒンデローペンの里の入り口にたどり着くと、まず、迎えてくれるのは、ヨットの立ち並ぶ港。所狭しと真っ白な優雅なヨットが港を埋め尽くしています。観光地のヒンデローペンにはお隣のドイツやイギリス、等、人々が集います。人々は心地よい海風を肌に感じながら、店先に並べている白いテーブルでカフェを楽しんでいます。

昔この港から広い世界へと人々の夢と希望を乗せた多くの船が出港しました。
17、18世紀に栄えたオランダの海洋貿易の玄関口としてのヒンデローペンの港に立つと、当時の人々のざわめきが沸きあがってきるような、そんなときめきがあります。船着場には昔、男たちが、おしゃべりを楽しんだベンチが港に向かっておいてあります。

フォークアートは庶民のアートです。ヒンデローペンアートは数多くの世代を通じて、その伝統を維持している町の家族単位のスタジオでいまだなお描かれている為、ヒンデローペンは珍しい雰囲気をかもし出しています。

その発展は町の人々の文化と歴史と深い関係があります。

現在、町のヒンデローペン博物館には18、19世紀の家具や生活用品、衣装、陶磁器などが展示され、当時のヒンデローペンの人たちの日常の生活が良くわかる展示がなされています。 お店や郵便局、ホテル、レストラン、のテーブルからドアー、壁やカウンターにヒンデローペンが描かれ、もちろんお土産やにはヒンデローペンが所狭しと並べられています。運河を背景に立ち並ぶヒンデローペンの町並みはまるでおとぎの国に出てくるような可愛らしいところで、一時間もかからないで回れます。でも中身はとても濃く、感動の連続。この感動を少しでも皆様にと、私の作品とともにヒンデローペンのアートのエッセンスをエッセイと写真と共にお送りします。

ヒンデローペンの町

ヒンデローペンの町は、オランダの北部に位置し、13世紀の初めまでに造られました。そしてハンザ同盟の活発なメンバーでした。ヒンデローペンは北海の細い部分をせき止めて出来た大きな美しい湖の東海岸に位置しています。

第二次世界大戦まで、この町は北海に通じる小さな港町でした。ハンザの町として、ヒンデローペンは世界中と交易をしました。特にスカンジナビア緒国とか、バルチック諸国と交易をしていました。家々は商人によって持ち帰られた , トランクスや木のボール、家具などで飾られました。

冬の間、船はアムステルダムやザーン(アムステルダムの北)に泊められており、男たちは夏は海に出て、冬には家に居た為に、社会活動は冬に活発に行われていました。って残っているベンチで、男たちは興味あることを話し合ったり、決定したベンチは今でも港に残されていますが、そのベンチに腰をかけると、まるで当時の男たちのざわめきが聞こえてくるように、観光客が賑やかに行きかいます。

毎年、2月2日以降、ヒンデローペンの船長たちは窓から錨を上げ、彼らの船が契約されたことを告げます。契約が一度交わされると、船が出帆準備され、出航したら、11月1日頃まで帰ってきません。そして冬、極寒の季節を迎えます。ヒンデローペンのヒンデは「鹿」、ローペンは「走る」と言う語源のように、昔のヒンデローペンは北海の細い部分をせき止めて出来た町で、孤立した位置に在るために、人々は独特な文化と言葉を作り上げてきました。

木材産業がアムステルダムとザーン地方に発展していたので、ヒンデローペンの人々は造船所にて、クラフトマンとして働き始め、船を飾ったり、窓や通路を飾ったりしました。そのため、ヒンデローペンの人たちは有能な木掘り師が多くいました。彼らは家具や家の周りにある小さな木片に彫刻しました。今でも博物館に木彫りのランドセルなど、生活用具が展示されています。

ヒンデローペンの船乗りたちはインドネシア、日本、インド、中国と交易をしていた東インド会社の船と共に航海をしていました。これらのことは、すべて、ヒンデローペンの人達とザーン地方の間に緊密な関係を作ることとなりました。

17世紀にハンザ同盟は解散され、隣接するストラボーレンのすべての船が強い嵐で破壊され、ストラボーレンは死の町になり、人々は産業と商業の繁栄しているザーン地方に移りました。

17世紀はオランダの黄金期であり、アムステルダムは世界の貿易と芸術の中心でありました。これはオランダのレンブラントを含むオランダ芸術の黄金期でした。貿易と共にビジネスマンや芸術家が来、ザーン地方の人々は家具ペイントを学びました。

ヒンデローペンの家々は伝統的な彼らの文化や中国の陶磁器やボウルやお皿等でかざられました。今年はレンブラントの生誕400年に当たり、オランダの黄金期を偲ぶ記念祭がアムステルダムで行われます。

ヒンデローペンの繁栄

16世紀の終わり頃、ヒンデローペンは木彫り彫刻や、木の破片に色をつけ始めました。17世紀の初めまでに、高価な樫木の換わりに彼らの家具に安い木を使うことを可能にし、彫刻のように中国のポーセリングのイミテーションをしていました。

お気に入りの色は赤でしたが、緑や暗い青、明るい青やいろいろな色に描きました。ひとつの明るい色と二つ暗い色で、花や鳥、カールのモチーフをかきました。ヒンデローペンは商業と文化の双方において、約一世紀の間、絶頂期でした。ヒンデローペンの商人たちはインドの手染綿等、世界中から美しいものを持ち帰りました。彼らの商業の成功は彼らの家の豊かな内装や、特別なコスチュームに示さました。他の国との芸術に触れ合う結果として、ヒンデローペンは発展しました。

画家たちは新しい花やカールやより多くの鳥や女神様やバイブルの物語の絵を彼らの作品に取り入れることにより、新しい手法を生み出していきました。

19世紀(衰退)

ヒンデローペンは18世紀から19世紀の初めにオランダはフランスに占領されました。オランダは大変貧しくなり、多くの人々がアムステルダムやザーン地方に異動し、残ったヒンデローペンの人々はあまりにも貧しく高価な作品を維持できなくなりました。お金を作るためにいくつかの彼らの作品を海外に売り、これにより、古い多くの作品が無くなりました。

ヒンデローペンの復活

1800年の終わりごろ、ルーワーデン市の近くで、ペイントファニチャー展が開かれました。このイベントがヒンデローペンの再発見とそれに続く復活に導きました。

Arend Roosjeと言う若い彫刻家が1894年コマーシャルスタジオを造りました。彼のスタイルはオリジナル彫刻のモチーフに基づいています。彼は花とスクロールをひとつの明るい色、二つの暗い色で描いております。彼は二人の生徒を教えていました。Kooysが有名になりす。

1916年、ローシェの若い死の後、父と息子が弟子を含んでスタジオを引き継ぎました。これらのペインター達は各々独特のスタイルと手法を持っていました。結果として、異なった手法が基本的スタイルの中で発展していきました。

代々継がれたヒンデローペンの基本の技法のローシェスタジオがヒンデローペンに素敵な看板を出しいます。